鍜治ゼミで七夕祭

去る、7月7日は五節句の中の1つ七夕(しちせき)の節句でした。
日本文学科中世ゼミ室では7月3日に七夕祭を行いました。
今回は「江戸庶民風の七夕の節句」をテーマに、半月がかりで準備を行い飾りつけをしました。
江戸時代には幕府の取り決めた五節句があり、年五回の節句には各家庭でお供えや節句料理を楽しんでいました。
七夕は、織物の神様である織姫にあやかって、裁縫と技芸の上達を願うのが通例です。なので、お供えには反物、和服、楽器、裁縫道具、などを棚にあげ、笹にお願い事をかけていました。
もともと七夕の節句料理は、そうめんの原型と言われる「索餅」(さくべい)という中国のお菓子でしたが、現在はそうめんが七夕の節句料理として一般的に知られています。
七夕についての解説の後、そうめん・スイカをいただきながら、楽しいひとときを過ごしました!

<七夕のこぼれ話>
七夕と言えば、現代人にとっては織姫と彦星のお話がベターな行事ですが、その起源や理由をひも解くと東アジアの各国の神話・学問が折り重なった、特異な年中行事であることが分かります。
そもそも、五節句とは1月7日の人日 (じんじつ) ,3月3日の上巳 (じょうし) ,5月5日の端午 (たんご) ,7月7日の七夕 (しちせき) ,9月9日の重陽 (ちょうよう) の5つのことで、中国の陰陽道で定められた季節の変わり目と、日本の農耕文化の季節感が融合して成立した宮中行事です。
彦星は別名「牽牛(けんぎゅう)」と呼ばれ、牛(=稲)を引っ張る牛飼いのことで「稲作」を意味します。また織姫は別名「織女(しゅくじょ)」と呼ばれ、こちらは布を織る「織物」を意味しています。この二人は出会って恋に溺れ、大切な仕事をしなくなったために神様は怒り、二人を天の川の対岸に引き離しました。そして7月7日だけ会えるようにしたと言われているのが中国の七夕伝説です。
この伝説に日本の伝統信仰である「棚機(たなばた)」と呼ばれる禊の行事が混同されました。乙女が着物を織って棚にそなえ、神さまを迎えて秋の豊作を祈り、人々のけがれをはらうというものでした。 やがて仏教が伝わると、この行事はお盆を迎える準備として7月7日の夜に行われるようになり、現在まで日本七夕まつりの原型になりました。
平安時代に、宮中行事として七夕行事が行われるようになり、その後江戸時代の七夕行事が幕府のきめた五節句の一つとなり、七夕は庶民の間にも広まり、全国的に行われるようになり今日の七夕まつりまで続いているのです。このように七夕の祭りは時代と共の変化してきた面白い背景を持っているのです。

 

(この記事と写真は鍜治ゼミの学生さんの作成によるものです)